八瀬の里は、京都の市街地から北東部に位置し、比叡山の麓で古くは日本海(小浜)から京の都へ魚などが運ばれた「鯖街道」が通る山間の小さな里です。
八瀬の村は昔から、皇室との関係が深く、後白川院の頃から八瀬童子は度々お供を勤め特に延元元年、後醍醐天皇が叡山に御潜幸の折には駕興丁を承り、弓矢を持って道中を御固め申し、無事に延暦寺までお供申し上げました。
こうしたことがあって建武三年二月二十四日に八瀬の村人一同に対し、「年貢以下諸課役」など一切免除の御綸旨を戴き、その後、歴代の朝廷から同様の御綸旨を賜ってまいりました。
寶永四年に比叡山「延暦寺」との結界に関して訴訟問題が起こり村人は御代々の御綸旨を奉載して幕府に上訴したところ、時の老中「秋元但馬守」は八瀬村に有利な裁定を下された。これは、単に一小村の訴訟沙汰としては、余りにも大きな出来事でありました。
村人は高恩報謝として、氏神天満宮の側に御綸旨宮を建て秋元神社として奉り毎年十月十一日(現在 体育の日の前日の日曜日)に「赦免地踊り」を奉納しています。